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芦屋や西宮を走る阪急電車から外を眺めていると、その昔は、テニスコートのある家がずいぶんとあったと聞く。外国からの客人をもてなすため、庭にコートを設え、豊かな時間を過ごしてきた人々。幼い頃、そんな光景を間近に見た記憶が、この方にもあるという。西宮市出身の元プロテニス選手、沢松奈生子さん。小川洋子さんとお会いしたこの日は2018年の9月6日。テニスファンなら記念すべきこの日を、ご記憶ではないでしょうか。そう、全米オープンで日本勢が男女揃って快挙を成し遂げ、朝から湧いたあの日です。

作家 小川洋子さん × 元プロテニス選手 沢松奈生子さん

  • 小川洋子おがわようこ

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    1991年「妊娠カレンダー」で芥川賞、2004年「博士の愛した数式」で読売文学賞・本屋大賞受賞。2006年、芦屋を舞台にした「ミーナの行進」で谷崎潤一郎賞受賞。物語の中に『洋菓子店“A”のクレープ・シュゼット』が印象的に登場する。

  • 沢松奈生子さわまつなおこ

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    元プロテニス選手。兵庫・夙川学院高校1年の時に全日本選手権女子シングルス優勝。95年の全豪オープンでは阪神大震災の知らせを受けながらも、グランドスラム自己最高のベスト8に進出。五輪にも二度出場した。世界ランクは最高14位。現在は解説者、スポーツコメンテーター、バラエティでも活躍。兵庫県西宮市出身。

第一章テニスは人生を映す鏡のよう

小川
今日は日本のプロテニス史上、歴史的な日に沢松さんにお会いできるという幸運で、私も光栄です。本当によかったですね。
沢松
悲願という言葉では片付けられないくらい、すごいことです。ベスト4はとてつもなく強い選手に勝たないと入れない領域。そこに“男女2人同時に”、は私も正直考えたことがなかったですね。
小川
今朝起きてテレビをつけたら錦織選手が試合をしていらして、大坂選手の試合はその前でしたよね。沢松さん、もしかしてずっと起きておられるのじゃないかと思って。
沢松
はい、全米オープンに合わせてニューヨーク時間で過ごしていましたので、(深夜の)1時から見ていました(笑)。
小川
ああ、やはり(笑)。それにしても錦織選手は、一度怪我でどうなるかと思いましたが、見事に復活しましたね。素人の私でもテニスの試合を見ていますと、なにか、人生を学ぶ時間のようです。
沢松
おっしゃる通りです。錦織選手の試合も、最初は相手のチリッチ選手の勢いがすごくて、錦織選手はそこをぐっと堪えて泥臭く1ポイントずつ重ねていったら、あんなに調子の良かった相手がいつの間にか崩れだして。その後もいくつも山があって、いい時もあれば悪い時もある。でも必ず苦しい後にはチャンスが来て、チャンスの後にはピンチも来る。あの試合の4時間8分に、まさに人の人生がありましたよね。
小川
それをいくつも乗り越えて世界中を転々としながら人生を繰り返し味わっていくスポーツ。しかも腕力や技術だけでなく運も味方につけなきゃいけない。今朝の試合でもチリッチ選手が途中イライラした様子で観客席にボールを打ち込んでいました。あの時に、これはもしかすると錦織選手が勝つのかもと思いました。
沢松
あのような場面で感情的になって崩れる選手も多いのですが、実はチリッチ選手ほど自分を客観的に捉えてマネジメントできる選手はいないとみています。だからあの時は自分がイライラしてきたのがわかったので、一旦吐きだして冷静に戻ろうとしたのだと。試合に負けた後も、観客席にいた一人のファンにタオルを渡しに行きましたよね。おそらく知り合いでもなんでもなくて、彼は試合中ずっと自分だけを応援してくれたファンを覚えているのです。
小川
見えているのですか(驚)。
沢松
あの冷静さは天才だと思いました。
小川
すごいですね。キリオス選手とはまた全然違いますね。
沢松
お詳しい! キリオスは一度崩れだすとダダダーっと(笑)。彼は技術面では天才ですので、感情をコントロールできるようになれば、ものすごく伸びると思います。

この日、二人が会った場所は、
銀座柳通りにあるアンリの「銀座メゾン」。
昭和初期に建てられた歴史的建造物。
この春、内装がリニューアルされ、
古き良き佇まいに新たな優雅さが誕生した。

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小川
沢松さんご自身も15歳で全日本選手権に初出場で初優勝。素晴らしいスタートを切られて、テニス界の歴史に名前を刻まれています。
沢松
そんな、私なんてとんでもないです。あれは若さゆえの勢いです。大人の階段を上る苦労を知ったのは、優勝してからです。プレッシャーや怪我との戦いもあれば、プロになると今度は世界ランキングにも追いかけられます。世界は体格も違います。ウイリアムズ姉妹とも試合をしたことがありますが、コートチェンジですれ違う時、上から見下ろされる格好になってしまう。その瞬間に、勝てない!と感じてしまうこともありました。
小川
いろいろなものを相手にしながら、自分の気持ちとどう立ち向かうか。強くなるにつれ、自分との戦いになってくるのですね。
沢松
そうです。一番怖い相手は誰かというと、実は試合でリードして勝利が見えてきた時の“自分”なんです。このまま早く勝利を掴みたい、と思うと急に攻められなくなって、相手のミスを期待したり、立つ位置も下がってしまう。今日の錦織選手も立つ位置がちょっと下がっただけで、チリッチ選手は怒涛のように攻めてきました。トップ選手ですら勝てると思った瞬間、震えてくるものなのです。
小川
そこを錦織選手は最後リターンエースで試合を決めたわけですね。試合を見ていると、2つ3つ、奇跡としか思えない瞬間もあります。
沢松
選手は普段、あそこに決めるという自ら描いたストーリーにそってラケットを振っていますが、奇跡のショットはそれすらも超えて、選手も「そこに!?」と思う瞬間です。でもそれは、相手もいてこそ。お互いが極限状態で打ち合う中で生まれてくるのです。
小川
なるほど、自分だけじゃない。一つの試合が人生だというのも、それは一人ではどうしようもなくて、相手と一緒に作り上げたものだというところがテニスの素晴らしいところですね——。あ、フィナンシェが出てまいりましたね(お二人の前に運ばれてくる)。
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沢松
いや、嬉しいわあ(喜)。
小川
西宮でお育ちですから、アンリ・シャルパンティエはよくご存知でしょうね?
沢松
もちろん!

フィナンシェとテニス。
2つに通じるものとは…?
To be continued.

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